●日本の十大家紋=蔦紋一例 
家紋入りネクタイ-丸に蔦紋 中陰蔦(ちゅうかげつた)/ 石持ち地抜き蔦 (こくもちじぬきつた)/藤堂蔦ふじどうつた) /石州蔦(せきしゅうつた)/大割り蔦(おおわりつた)/石持ち地抜き大割り蔦/ 蔦菱(つたびし)/ 中陰蔦菱/浮線蔦菱(ふせんつたびし)/ 三河蔦(みかわつた) /中陰鬼蔦菱(ちゅうかげおにつたびし)/結び鬼蔦(むすびおにつた)/鬼蔦菱(おにつたびし)/中陰鬼蔦菱(ちゅうかげおにつたびし)/細中陰鬼蔦菱(ほそちゅうかげおにつたびし)/朧蔦(おぼろつた)/崩し蔦/錫杖蔦(しゃくじょうつた)/ 中陰光琳蔦(ちゅうかげこうりんつた) /太陰光琳蔦 /蔓蔦(つるつた)/昭和蔦 /糸輪に蔦/ /糸輪に陰蔦/ 丸に鬼蔦 /総陰丸に鬼蔦(そうかげまるにおにつた)/丸に大割り鬼蔦/ 雪輪に蔦(ゆきわにつた)/細輪地紙に蔦(ほそおわじがみにつた)/ 唐草輪に蔦(からくさわにつた)/ 中輪に壷に蔦(ちゅうわにつぼにつた)/鶉蔦(うずらつた)/ 浮線蔦(ふせんつた)/変り浮線蔦/浮線蔦蝶(ふせんつたちょう)/上下大割り鬼蔦/ 割り蔦 /入れ違い割り蔦/ 三つ割蔦/中陰三つ割り蔦/外三つ割り蔦/三つ盛り蔦/丸に尻合わせ三つ蔦/丸に尻合わせ三つ鬼蔦/丸に頭合わせ三つ蔦/三つ寄せ蔓蔦/結び蔦/三つ組み蔦形/三つ組み光琳蔦(みつくみこうりんつた)/三つ組み中陰蔦/三つ寄せ中陰蔦菱/丸に六つ蔦花/糸輪に覗き蔦(いとわにのぞきつた)/垂れ角に出蔦(たれかくにでつた)/向かい蔦菱(むかいつたびし)/菱に蔦/菱に覗き蔦(ひしにのぞきつた)/糸菱の陰覗き蔦(いとびしのかげのぞきつた)/中陰に蔦に水(ちゅうかげにつたにみず)/蟹蔦(かにつた)/中陰蔦飛び蝶/中陰鬼蔦蔓(ちゅうかげおにつたつる)/枝蔦(えだつた)/蔦の枝丸(つたのえだまる)/丸に蔦の角字(まるにつたのかくじ)/
 
『万葉集』に「さ寝し夜は、いくだもあらず、這う蔦の、別れし来れば。。。。。。」という柿本人麻呂の長歌がありが、蔦の名は地面を這いつたわって伸びることから起った、さらに美しく紅葉すると楓に似ているので別名をツタカエデ、あるいは地錦などともいう。

平安時代から貴族の衣服の文様に使われたことが『源氏物語』や『枕草子』『栄華物語』などの文様によく出てくるのもその美しさが愛好されたためだろう。
しかし、ふしぎなことに、これを家紋にした公家は見当たらない。

家紋としいては室町時代のお「見聞諸家紋」に椎名、富田、高安の三氏が出ているのが初見のようだが、それ以前から使用されていただろうことは容易に想像できる。

江戸時代の蔦紋使用大名としては藤堂、松平、六郷の三氏が著明だが、旗本では百六十氏にのぼる。



松平諸氏は徳川の一門に連なるので初めは葵紋を使用していたが、後の将軍家に遠慮して蔦紋に替えている。
江戸時代には、上は将軍から下は花柳界の女性にいたるまでに大いに愛好された。
八代将軍徳川吉宗は将軍家としての自分の血筋が途絶えるのを心配して一橋、田安、清水の御三卿を立て、徳川家の本紋の葵の替え紋として蔦紋を用いた。

これなど蔦の生命力の強さにあやかり、子孫の繁栄を願ったものに違いない。
一方、花柳界の女性に愛されたのは、客に蔦のようにからみついて離さないという縁起をかついでのことであろうか?
当然ながら暖簾にも蔦紋が染めぬかれている。

蔦紋のバリエーションは約百種もある。
ほとんどが葉をデザインしている。
一葉から五葉まであるが、最も親しまれているのは、五葉の単純な形だ。
葉に切り込みを入れているのを鬼蔦という。
花を中心にした「花蔦」蔓を付した「蔓蔦」大きくデフォルメした「光琳蔦」や「利休蔦」それに「三つ盛蔦」「尻合わせ蔦」「頭合わせ蔦」なども見られる。
外輪のあるもの、ないものなどさまざまだ。
 

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